理想の走りを追い求めた28年間、妥協なきプロセスと引き際の決断
株式会社SPEEDチャンネル
専属コメンテーター/元競輪選手 村上 義弘氏
己との対峙――「日本一」への執着と意図的に作る波
28年という長い競技生活の中で、常に高いパフォーマンスを維持されてきました。日々の練習やコンディション作りで何を意識されていたのでしょうか?
私の場合、競輪選手になることは子どもの頃からの夢でした。「日本一の競輪選手になりたい」というその一心だけでずっと取り組んできました。
競輪にはオフシーズンがなく1年中レースが続きます。ですから、常にベストコンディションでいることは生理的に不可能です。そこで、1年の中で「調子の波」を意図的に作るようにしていました。例えば、当時は3月に開催されていた日本選手権(ダービー)に向けて1年かけて体を作り、そこにピークを持っていく。その後、一度調子を落としてでもトレーニング期間を確保し、年末のKEIRINグランプリに向けて再び上げていくという2つの波を意識していました。
競輪にはオフシーズンがなく1年中レースが続きます。ですから、常にベストコンディションでいることは生理的に不可能です。そこで、1年の中で「調子の波」を意図的に作るようにしていました。例えば、当時は3月に開催されていた日本選手権(ダービー)に向けて1年かけて体を作り、そこにピークを持っていく。その後、一度調子を落としてでもトレーニング期間を確保し、年末のKEIRINグランプリに向けて再び上げていくという2つの波を意識していました。
そのスケジュール管理も師匠を付けずにご自身でされていたと伺いました。思い描くような結果が出ないときに焦りや不安を感じることはなかったのでしょうか?
いま目の前の結果が良くなくても、それが次の大きな目標へ到達するためのプロセスであると確信していたので、目先の成績に一喜一憂して落胆することはほとんどありませんでした。
それは調子の良いときも同じです。私は元々周りの選手と比べて才能に恵まれていたわけではありません。体格の大きいライバルも多い中で掴み取った結果は決して余裕のあるものではなく常にギリギリのところで届いたものでした。それは日々の生活から妥協せずに積み上げてきたことに対して、「神様からのご褒美」のようなものだと思っていました。だからこそ結果が出ても舞い上がることはなく、すぐに「また一から」と自分を律して次のレースに向き合うことができたのだと思います。
それは調子の良いときも同じです。私は元々周りの選手と比べて才能に恵まれていたわけではありません。体格の大きいライバルも多い中で掴み取った結果は決して余裕のあるものではなく常にギリギリのところで届いたものでした。それは日々の生活から妥協せずに積み上げてきたことに対して、「神様からのご褒美」のようなものだと思っていました。だからこそ結果が出ても舞い上がることはなく、すぐに「また一から」と自分を律して次のレースに向き合うことができたのだと思います。
プロの誇り――納得の敗戦と「先行」へのこだわり
©スポーツ報知
勝負の世界は「1着か、それ以外か」という厳しい世界です。しかし、村上さんは「負け」の中にも価値があると考えておられたようですね。
アマチュアスポーツであれば勝つか負けるかが最大のポイントでしょう。しかし、プロスポーツはお客様に見ていただくものです。敗戦の中にもどのような価値をファンに見せることができるか。そこが重要だと考えていました。
ファンは結果だけでなくレース内容を見ています。年間100戦ほど走る中で、「村上の戦うスタイルはこれだ」という個性をアピールし続ける。もし負けたとしても、「何もしないで負けたわけではない、自分のスタイルを貫いて戦った結果だ」とファンが納得してくれる。それが競輪特有の文化であり、プロとしての姿勢だと考えています。
ファンは結果だけでなくレース内容を見ています。年間100戦ほど走る中で、「村上の戦うスタイルはこれだ」という個性をアピールし続ける。もし負けたとしても、「何もしないで負けたわけではない、自分のスタイルを貫いて戦った結果だ」とファンが納得してくれる。それが競輪特有の文化であり、プロとしての姿勢だと考えています。
そのスタイルの象徴が最も過酷とされる「先行」でした。やはり「先行」へのこだわりは並々ならぬものを感じます。
レースでは「ライン」を組んで走りますが、自分が勝つということは、共に戦った仲間が負けるということでもあります。それを手放しで喜んでいいのか、どこか複雑な思いがありました。だからこそ、私は「先行」が最高の走りだと思っているんです。
先行は最も風圧を受けて肉体的にも苦しい戦法です。その中で勝ち切るのは純粋に自分の力が一番強かったからに他なりません。それこそが仲間もファンも全員が納得できる一番の勝ち方だと思うんです。
先行は最も風圧を受けて肉体的にも苦しい戦法です。その中で勝ち切るのは純粋に自分の力が一番強かったからに他なりません。それこそが仲間もファンも全員が納得できる一番の勝ち方だと思うんです。
成熟と変化――肉体の限界を技術で凌駕する
©加地豊 左から3人目が村上氏
30代から40代にかけて怪我との戦いも増えていきました。大きな怪我を乗り越えられた背景にはどのような心境の変化があったのですか?
年を重ねるごとに怪我が増え、思うように体が動かなくなる時期は本当にしんどかったです。しかし、力が落ちていく一方で技術やレース運びの組み立てはどんどん磨かれていきました。
家でもずっと競輪の映像を見て、他の選手の特性や自分の仕掛けるタイミングを分析していましたし、単に自分の力を出すだけでなく「相手の力を封じる」という勝負の深さを学んだのは30代後半からです。40歳を超えた頃には、逆に自分の「成熟期」を感じることもありました。
家でもずっと競輪の映像を見て、他の選手の特性や自分の仕掛けるタイミングを分析していましたし、単に自分の力を出すだけでなく「相手の力を封じる」という勝負の深さを学んだのは30代後半からです。40歳を超えた頃には、逆に自分の「成熟期」を感じることもありました。
ラインと信頼――プロの役割を貫き続け「背中で語る」リーダーシップ
©加地豊
競輪には「ライン」という、個人競技でありながら仲間と協力する独特の絆があります。村上さんはチームメイトや後輩からも大きな信頼を寄せられていましたが、どのような意識で彼らと接していたのでしょうか?
実は若い頃の私はかなりとがっていて、わがままな性格でした(笑)しかし、自分のスタイルを貫き、与えられたポジションで全力で戦い続けるうちに、いつの間にか仲間たちがそれを評価してくれるようになっていることに気づきました。
「自分は後輩に何かを教えられるような人間ではない」と思っていました。ですから、言葉で教えるのではなく、自分が理想とする競輪選手としての生活、そしてレースでの振る舞いを淡々と一生懸命にやってきただけです。それが結果として「背中で語る」形になり後輩たちがついてきてくれたのだと感じます。
「自分は後輩に何かを教えられるような人間ではない」と思っていました。ですから、言葉で教えるのではなく、自分が理想とする競輪選手としての生活、そしてレースでの振る舞いを淡々と一生懸命にやってきただけです。それが結果として「背中で語る」形になり後輩たちがついてきてくれたのだと感じます。
仲間やファンからの信頼を感じることで、村上さん自身の走りにも変化はありましたか?
信頼してくれる後輩たちに恥ずかしくないレースをしなければならないという心地よいプレッシャーはありましたね。自分のスタイルを貫く姿が彼らにとっても良い刺激やプレッシャーになればいいと思っていました。
引き際の決断――「日本一」を諦めた瞬間
2022年9月の引退発表は非常に電撃的でした。28年間を捧げてきた競輪から身を引く決断はどのように下されたのでしょうか?
私は競輪が大好きで「自分が現役を引退するときは家族や仲間に労ってもらって、その翌日に死にたい」と周囲に話していたほど、競輪はずっと続けていくものだと思っていました。ただ、現役晩年は体力の衰えを感じていましたし、それを補うために誰よりもハードな練習をしていましたがついに体が答えなくなりました。
決定的だったのはレース後いつものように整体を受けながら自分のレース映像を見直していた時でした。自分が取り組んできたトレーニング、レースの組み立て、闘争心と、実際のレースの躍動感があまりにも違いすぎて愕然としました。そのとき「ずっと目指していた『日本一の選手』にはもうなれない。自分はここまでなんだ。」と思いました。
決定的だったのはレース後いつものように整体を受けながら自分のレース映像を見直していた時でした。自分が取り組んできたトレーニング、レースの組み立て、闘争心と、実際のレースの躍動感があまりにも違いすぎて愕然としました。そのとき「ずっと目指していた『日本一の選手』にはもうなれない。自分はここまでなんだ。」と思いました。
その日、その映像を見てから帰宅するまでの間に決められたと。
車で家に帰る2時間ほどの間に決断しました。私は「このレースで引退しよう」と事前に終わりを決めて引退するのではなく「自分がダメだと思った時が辞め時だ」と昔から決めていたんです。
「日本一の選手」という目標を諦め、クラスを下げてまで走り続ける自分の姿を後輩やファンは見たいだろうか。そう自問自答した時、私の闘争心を最後に見せられたレースが引き際だと確信しました。理想のレベルに届かないと分かった瞬間、引退という決断を自然と受け入れることができました。
「日本一の選手」という目標を諦め、クラスを下げてまで走り続ける自分の姿を後輩やファンは見たいだろうか。そう自問自答した時、私の闘争心を最後に見せられたレースが引き際だと確信しました。理想のレベルに届かないと分かった瞬間、引退という決断を自然と受け入れることができました。
次なるステージへ――競輪と自転車競技の橋渡し
引退後、現在は解説やメディア出演を通じて競輪に携わっておられます。外から見る競輪はどのように映っていますか?
あの勝負のヒリヒリするような感覚はいまでも忘れられませんし、現役選手のレースを解説していても当時の感覚がフラッシュバックすることがあります。もう戦わなくていいという安堵感がある一方で、やはりあの極限の緊張感が味わえる勝負の世界は本当に面白いと感じます。この闘争心や勝負に向かう姿勢こそが、私が競輪選手として最も向いていた部分であり、親からもらった一番の才能だったのだと思います。
引退後は指導者という選択肢もありますが、自分の経験があまりに苦しすぎたので同じことを後輩に強いることはできません。ただ、私が現役時代に本気で向き合ってきたからこそ伝えられる言葉があります。トップ選手たちも相談に来てくれますし、彼らとの対話を通じて自分が築き上げてきたものが次世代に繋がっていけばいいなと思っています。
引退後は指導者という選択肢もありますが、自分の経験があまりに苦しすぎたので同じことを後輩に強いることはできません。ただ、私が現役時代に本気で向き合ってきたからこそ伝えられる言葉があります。トップ選手たちも相談に来てくれますし、彼らとの対話を通じて自分が築き上げてきたものが次世代に繋がっていけばいいなと思っています。
今後の展望について教えてください。
競輪は単なる速さの競い合いではなく、人間が走るからこそ生まれるドラマがあります。その深みをファンの皆さんに伝えていきたいです。
また、現在は自転車競技と競輪が分かれていますが、その橋渡し役となって日本のトップ選手が世界で活躍し、世界の選手も日本の競輪で結果を残せるような、そんな活性化された競輪界を作っていく手助けができればと考えています。
また、現在は自転車競技と競輪が分かれていますが、その橋渡し役となって日本のトップ選手が世界で活躍し、世界の選手も日本の競輪で結果を残せるような、そんな活性化された競輪界を作っていく手助けができればと考えています。
COMPANY INFO会社情報
- 企業名
- 株式会社SPEEDチャンネル
- 代表者
- 渡邉 実
- 所在地
- 〒102-0083東京都千代田区麹町4-8 麹町クリスタルシティ東館13階
- 事業内容
- 放送業務一般、放送番組の企画・制作 他
- ホームページ
- https://www.speedchannel.co.jp/