
冷凍輸送の先駆者として、物流の未来と人々の幸せを追求する。
株式会社福岡運輸ホールディングス
代表取締役社長 富永 泰輔氏
創業家に生まれ、迷いの中で入社を決断する

まずは、富永社長のプロフィールについてお聞かせいただけますでしょうか。
福岡市にある福岡運輸の創業家に生まれました。創業者の富永シヅは、私の祖母にあたります。私は、東京大学を1998年に卒業しましたが、当時の就職環境は非常に厳しく、90年代初頭に起こったバブル崩壊の影響で、銀行や証券会社の不祥事が次々と明るみに出た時代でしたね。
就職先はいろいろと悩みましたが、最終的には福岡運輸への入社を決断しました。創業家の出身者が後を継ぐ際に、一度は他の会社で修行をするという話はよくありますが、私は周囲の方々とよく相談した上で、初めからこの会社を選ぶことにしたんです。
この決断には、私が5歳の時に父親が亡くなっていたことと、その当時、福岡運輸に創業家一族が誰も籍を置いていなかったことが影響しています。
就職先はいろいろと悩みましたが、最終的には福岡運輸への入社を決断しました。創業家の出身者が後を継ぐ際に、一度は他の会社で修行をするという話はよくありますが、私は周囲の方々とよく相談した上で、初めからこの会社を選ぶことにしたんです。
この決断には、私が5歳の時に父親が亡くなっていたことと、その当時、福岡運輸に創業家一族が誰も籍を置いていなかったことが影響しています。
ご入社後、具体的にどのような業務を担当されていたのでしょうか。
入社後は配車業務に配属され、一般社員と同じように働きました。配車業務とは、配送先や荷物の種類に合わせて車両とドライバーを割り当てる仕事です。私は大学時代から住んでいた関東を、そのまま勤務地として希望しました。
当時の福岡運輸は売上高200億円ほどで、運輸業界としてはそこそこの規模でした。関東にもいくつかの拠点を持っており、私は川崎市に住んで、そこで3年間ほど配車業務に携わりました。
当時の福岡運輸は売上高200億円ほどで、運輸業界としてはそこそこの規模でした。関東にもいくつかの拠点を持っており、私は川崎市に住んで、そこで3年間ほど配車業務に携わりました。
留学と政治の経験を経て、38歳で会社のバトンを受け取る
その後、そのまま会社を継承されたのでしょうか。
いえ、実は働いているうちに、一度いろいろな経験をしてみたいと思うようになりまして。
会社に籍を置いたまま、イギリスとカナダに半年ずつ留学しました。ビジネスに特化した留学ではなく、さまざまなことを経験させてもらいましたね。自分で決断して福岡運輸に入ったものの、卒業してすぐに家業に入ってよかったのかという葛藤もあったので、そういった気持ちを整理する良い機会になったと思います。
その後、今度は東京で政治家の秘書を務めました。以前から、政治はとても重要なものだと感じていて、機会があれば飛び込んでみたいと思っていたんです。
秘書として2年間ほど活動し、29歳の時には国政選挙に立候補もしました。結果は残念ながら落選でしたが、その後も政治の世界には2年間ほど関わりました。
会社に戻ったのは2005年、私が31歳の時です。
会社に籍を置いたまま、イギリスとカナダに半年ずつ留学しました。ビジネスに特化した留学ではなく、さまざまなことを経験させてもらいましたね。自分で決断して福岡運輸に入ったものの、卒業してすぐに家業に入ってよかったのかという葛藤もあったので、そういった気持ちを整理する良い機会になったと思います。
その後、今度は東京で政治家の秘書を務めました。以前から、政治はとても重要なものだと感じていて、機会があれば飛び込んでみたいと思っていたんです。
秘書として2年間ほど活動し、29歳の時には国政選挙に立候補もしました。結果は残念ながら落選でしたが、その後も政治の世界には2年間ほど関わりました。
会社に戻ったのは2005年、私が31歳の時です。
豊富なご経験をお持ちですが、会社を継がれたのはいつ頃のことだったのでしょうか。
2012年です。私は38歳になっていました。翌年にはホールディングスの代表にも就任しています。
実は、中学や高校時代には、会社を継ぐという意識は全くなかったんですよ。しかし、母親から何となくその話をされていたこともあって、入社してからは、タイミングは別として将来的に福岡運輸を継ぐという意識は徐々に芽生えてきました。
会社に戻ってからは常務取締役、専務取締役と役職が上がっていき、特別な経緯はなく、前社長と話し合いをして、40歳前という節目でバトンタッチする形となりました。
ちなみに、福岡運輸には私の父親も入社し、副社長まで務めていましたが、前述の通り不慮の事故で亡くなっています。当時、父親は40歳を迎えてしばらくしてからでした。
実は、中学や高校時代には、会社を継ぐという意識は全くなかったんですよ。しかし、母親から何となくその話をされていたこともあって、入社してからは、タイミングは別として将来的に福岡運輸を継ぐという意識は徐々に芽生えてきました。
会社に戻ってからは常務取締役、専務取締役と役職が上がっていき、特別な経緯はなく、前社長と話し合いをして、40歳前という節目でバトンタッチする形となりました。
ちなみに、福岡運輸には私の父親も入社し、副社長まで務めていましたが、前述の通り不慮の事故で亡くなっています。当時、父親は40歳を迎えてしばらくしてからでした。
創業者の理念『社会に必要な仕事をする』を守り続ける

創業者であり、また富永社長のお祖母様でもある富永シヅ氏は、どのような方だったのでしょうか。
もちろん、私自身は祖母と一緒に仕事をしたことはありませんが、仕事には非常に厳しい人だったと思います。
祖母は「冷凍輸送は将来必ず社会に必要になる」と信じた上で「社会に役立ちたい」という強い信念を持って、国内で前例のなかった冷凍車を開発した人でした。そもそも、当時は女性が企業を経営すること自体が非常に珍しかったんですよ。今ですら、運送会社を経営する女性は少ないという印象です。
未来の需要を見越していたとはいえ、冷凍車をゼロから作り上げるためにメーカーと協力して取り組む姿勢は、創業者特有の並外れた情熱があったと思います。おそらく、良い意味で「普通ではなかった」人で、常識にとらわれない発想力と強い信念を持っていたのでしょう。
彼女が作り上げた「国産第一号機械式冷凍車」は、国立科学博物館の<未来技術遺産>第100号に登録されました。2006年には当時の実車をベースに復元し、佐賀県の敷地に展示しています。
祖母は「冷凍輸送は将来必ず社会に必要になる」と信じた上で「社会に役立ちたい」という強い信念を持って、国内で前例のなかった冷凍車を開発した人でした。そもそも、当時は女性が企業を経営すること自体が非常に珍しかったんですよ。今ですら、運送会社を経営する女性は少ないという印象です。
未来の需要を見越していたとはいえ、冷凍車をゼロから作り上げるためにメーカーと協力して取り組む姿勢は、創業者特有の並外れた情熱があったと思います。おそらく、良い意味で「普通ではなかった」人で、常識にとらわれない発想力と強い信念を持っていたのでしょう。
彼女が作り上げた「国産第一号機械式冷凍車」は、国立科学博物館の<未来技術遺産>第100号に登録されました。2006年には当時の実車をベースに復元し、佐賀県の敷地に展示しています。
創業当時から現在に至るまで、引き継がれている大切な理念や信念はどのようなものですか。
福岡運輸では、創業当初から「社会に必要な仕事をする」という信念を大事にしています。社会にとって必要な仕事、社会を良くする仕事、なくてはならない仕事を追求する姿勢ですね。
この祖母の考えを私自身も大切にしていますし、グループ全体としてもその理念は決して外さず、事業を進めています。
この祖母の考えを私自身も大切にしていますし、グループ全体としてもその理念は決して外さず、事業を進めています。
人手不足と自動化という課題に直面

素晴らしい信念ですね。現在の経営において、特に課題として感じていらっしゃることは何でしょうか。
現在は「人手不足」と「自動化」という、2つの大きな課題に直面しています。
我々は日本の物流を担う企業として、昔から続く非常に重要な仕事をしています。物流というのは過去から存在しており、今後も無くなることはありません。誰かがやらなければならない、社会的に大切な役割を担う事業です。
一方で、今は時代の大きな転換点を迎えていると感じています。昔は人間が手で運んでいた物流も、やがて馬や牛を使い、現在では自動車が主流となりました。動力は時代とともに変わりましたが、「人が動かす」という点は基本的に一緒です。無人化というものは根本的な変化とも考えることができます。
「人手不足」の最大の問題点は、中途採用で来る人材が、ほとんどが他社でドライバーをしていた人たちだということです。つまり、業界内での人材の奪い合いに過ぎず、業界全体の問題解決にはつながっていません。
日本国内の労働力人口は今後、確実に減少していきます。だからこそ、他業種から人材を集めるか、総稼働数が少なくても成り立つようにするか、何かしらの対策を業界全体で取り組む必要があるのです。
我々は日本の物流を担う企業として、昔から続く非常に重要な仕事をしています。物流というのは過去から存在しており、今後も無くなることはありません。誰かがやらなければならない、社会的に大切な役割を担う事業です。
一方で、今は時代の大きな転換点を迎えていると感じています。昔は人間が手で運んでいた物流も、やがて馬や牛を使い、現在では自動車が主流となりました。動力は時代とともに変わりましたが、「人が動かす」という点は基本的に一緒です。無人化というものは根本的な変化とも考えることができます。
「人手不足」の最大の問題点は、中途採用で来る人材が、ほとんどが他社でドライバーをしていた人たちだということです。つまり、業界内での人材の奪い合いに過ぎず、業界全体の問題解決にはつながっていません。
日本国内の労働力人口は今後、確実に減少していきます。だからこそ、他業種から人材を集めるか、総稼働数が少なくても成り立つようにするか、何かしらの対策を業界全体で取り組む必要があるのです。
深刻な人手不足について、福岡運輸ではこの問題にどのように取り組まれているのでしょうか。
私たちも、会社の魅力を高めて新たな人材を呼び込む努力をしていますが、時間がかかって難しく、改善には至っていません。ドライバーの仕事は本当に大変で、その負担を軽減するためには、行政を巻き込んで付帯作業の削減なども進める必要がありますが、まだ道半ばですね。
これらの課題には非常に複雑な要素が絡んでいますので、個別ではなく、業界全体で他業界と人材獲得競争をする必要があります。しかし業界内では、企業間での人材の奪い合いが続いているのが現状です。日本には未だに約6万社の運送会社が存在しており、この課題を解決するのは簡単ではないと考えています。
これらの課題には非常に複雑な要素が絡んでいますので、個別ではなく、業界全体で他業界と人材獲得競争をする必要があります。しかし業界内では、企業間での人材の奪い合いが続いているのが現状です。日本には未だに約6万社の運送会社が存在しており、この課題を解決するのは簡単ではないと考えています。
社会に必要なビジネスとして、経営判断を支える価値観
何か重要な決断を迫られた際には、どのような価値観に基づいて判断されてきましたか。
基本的に、迷ったら「やろう」と決めています。ただ、これまでのところ、非常に大きな決断を求められる場面はそれほど多くありませんでした。その理由の一つは、我々のビジネスが「社会にとって本当に必要な仕事」だという事実が、背景があるからだと思います。
例えば、コロナ禍では業界によっては価値観が大きく変わり、厳しい状況に直面したところも多くありました。M&Aの分野でも、対面で会えないと「買う」決断が難しく、zoomなどのオンライン会議ではやはり判断しづらいのが現状です。実際に現地を見なければ分からないことも多いですからね。
例えば、コロナ禍では業界によっては価値観が大きく変わり、厳しい状況に直面したところも多くありました。M&Aの分野でも、対面で会えないと「買う」決断が難しく、zoomなどのオンライン会議ではやはり判断しづらいのが現状です。実際に現地を見なければ分からないことも多いですからね。
確かにおっしゃる通りですね。MABPも全く影響がなかったとは言い切れません。
一方で、我々のビジネスは社会生活に欠かせないものです。コロナ禍では、社会から本当に必要とされなくなってしまった業界がある中で、多少の影響はあったものの、我々の業界では需要が蒸発してしまうようなことはありませんでした。
過去にはITバブル崩壊やリーマンショック、東日本大震災などもあってそれなりに影響も受けましたが、全国的な需要が急減することはなかったですね。そういった観点から見ると、経営者としては比較的やりやすい業界だと言えるかもしれません。
ただ、差別化を図ろうとすると難しさが増します。例えば、私より下の世代が創業した運送会社で上場企業がないのは、その難しさの現れかもしれません。上の世代では、数千億円規模の企業もたくさん存在していますけどね。
もう一つの要因は、私が社長として過ごしてきたこの10年間が、比較的環境に恵まれていたということです。社会全体が好調で、株価も上がっていました。いろいろな出来事がありましたが、正直に言うと、この10年は「誰がやっても成功できた時代」だったと思っています。
過去にはITバブル崩壊やリーマンショック、東日本大震災などもあってそれなりに影響も受けましたが、全国的な需要が急減することはなかったですね。そういった観点から見ると、経営者としては比較的やりやすい業界だと言えるかもしれません。
ただ、差別化を図ろうとすると難しさが増します。例えば、私より下の世代が創業した運送会社で上場企業がないのは、その難しさの現れかもしれません。上の世代では、数千億円規模の企業もたくさん存在していますけどね。
もう一つの要因は、私が社長として過ごしてきたこの10年間が、比較的環境に恵まれていたということです。社会全体が好調で、株価も上がっていました。いろいろな出来事がありましたが、正直に言うと、この10年は「誰がやっても成功できた時代」だったと思っています。
関わる全ての人々が幸せになれる、理想の会社を目指す

富永社長が大切にされている「座右の銘」をお聞かせいただけますか。
「泰山は土壌を譲らず」という言葉です。泰山は中国にある高い山で、どんなに小さな土の欠片でも受け入れてきた結果、あの大きな山になったという意味になります。
物流業界は労働集約型のビジネスです。当社も売上が数百億円、社員は2,000名ほどいます。規模が大きくなると、どうしても「あの人が好き、あの人は嫌い」といった好き嫌いが出てくるものですが、私は意識して、そういったことをできるだけ考えないようにしています。
周りをイエスマンばかりで固めたいとは思いません。それは逆に良くないことだと思います。いろんなタイプの方がいて、この会社が成り立っているのです。中には、私とは方針ややり方が全く合わない社員もいますが、そういう方々がいるからこそ組織が回っているんだと理解しています。
この考え方は、結果的に会社にとっても自分にとってもプラスになると信じています。
物流業界は労働集約型のビジネスです。当社も売上が数百億円、社員は2,000名ほどいます。規模が大きくなると、どうしても「あの人が好き、あの人は嫌い」といった好き嫌いが出てくるものですが、私は意識して、そういったことをできるだけ考えないようにしています。
周りをイエスマンばかりで固めたいとは思いません。それは逆に良くないことだと思います。いろんなタイプの方がいて、この会社が成り立っているのです。中には、私とは方針ややり方が全く合わない社員もいますが、そういう方々がいるからこそ組織が回っているんだと理解しています。
この考え方は、結果的に会社にとっても自分にとってもプラスになると信じています。
最後に、今後の目標として「こうありたい」と思われる会社の理想像をお聞かせいただけますか。
私が大切にしているのは、福岡運輸に関わっている周囲の方々、いわゆる<ステークホルダー>が幸せになって欲しいという思いです。その中でも一番はやはり<社員>ですね。社員が「福岡運輸で働いてよかった」と心から思ってもらえるような会社でありたいと強く願っています。
また、私自身、経営者としてはまだまだ若輩者ですが、この業界をもっと盛り上げていきたいという思いがあります。トラック運送業界をより良くしていきたい。
厳しい環境下で、課題も山積しています。しかしその中でも、自分の価値を高めながら、福岡運輸をさらに良い会社にしていきたいと考えています。
また、私自身、経営者としてはまだまだ若輩者ですが、この業界をもっと盛り上げていきたいという思いがあります。トラック運送業界をより良くしていきたい。
厳しい環境下で、課題も山積しています。しかしその中でも、自分の価値を高めながら、福岡運輸をさらに良い会社にしていきたいと考えています。
COMPANY INFO会社情報
- 企業名
- 株式会社福岡運輸ホールディングス
- 代表者
- 富永 泰輔
- 所在地
- 〒812-0002 福岡県福岡市博多区空港前2丁目2番26号
- 設立
- 1956年
- 事業内容
- 総合物流
- ホームページ
- https://www.fukuokaunyu.co.jp/