利用者が”最期まで自分らしく生きられる”介護を。高齢化が進む社会で、経営者としての逃げない選択

利用者が”最期まで自分らしく生きられる”介護を。高齢化が進む社会で、経営者としての逃げない選択

株式会社ケアクラフトマン
代表取締役
大平 怜也氏

はじめは乗り気でなかった介護業界。次第にその楽しさと奥深さに気付くように



株式会社ケアクラフトマンの代表取締役を務める大平怜也氏にお話をお伺いします。まず、介護の仕事に就くまでの経緯を教えてください。


生まれは鹿児島県長島町です。学生時代以外は、ほとんどの期間を地元で過ごしています。
1999年にデザイン系の専門学校を卒業してから、就職活動もせず、居酒屋でアルバイトをしていました。
ところが、ある日突然解雇されたんです。業績が落ち込んでたいたのかもしれません。
そんな時、父から地元の長島町に新しく特別養護老人ホームができると聞きました。
正直、田舎に帰りたくなかったんですが、仕事もないし、親の顔も立てないといけないと思って、泣く泣く帰郷し、2000年の1月か2月に入職しました。


思いがけない形で地元に戻られたんですね。当時は介護の仕事に対してどんな印象でしたか?


まったく乗り気ではありませんでした。
研修で初めてオムツ交換を経験した時に、「もうやめよう」と決意したくらいです。
はじめの半年くらいは、「絶対にやめよう」と思いながら働いていましたね。
でも良い同僚に恵まれたのと、居心地も良かったので、なんとか続けられました。



今や介護事業の経営者であられます。その後、介護の仕事に対する気持ちはどう変わっていったんですか?


それから仕事を始めて3年目に、介護福祉士の国家資格に挑戦することにしたんです。
そこで初めて本格的に介護の勉強をしたんですが、これが意外と面白くて。
介護は結構奥深いんだということに気づき始めました。


介護の勉強のどんなところに興味を持ちましたか?


わからなかったことがわかるようになったり、知らなかったことを知ったりするのが面白かったです。
実技試験の練習で、新しい介護技術を身につけていくのも楽しかったですね。
好奇心旺盛なほうなので、「なぜこうするのか」といった疑問を追求し、理解していく過程が楽しくて、多分性に合っていたんです。


その後の仕事へのモチベーションも上がっていったんですね。


そうなんです。
無事に介護福祉士の試験に合格して、ちょっとした役職もつきました。
そこからは本当に介護にどっぷりとハマっていきましたね。
面倒くさいくらいハマっていました(笑)。
最初はまったく想像していませんでしたが、どんどん介護の仕事の楽しさと奥深さに気づいていって、今ではこの道を選んで良かったと思っています。

「もっといい介護がしたい」。自分の理想とする介護を実現するため、起業を決意

起業を考えるようになったきっかけは何だったのでしょうか?


介護福祉士の試験のあとも色々資格を取って、入社9年目くらいにケアマネージャーになったんです。
ケアマネージャーはいわゆる中間管理職で、ケアの計画を立てて人を動かしたり、組織作りをしたりする中で、マネジメントの面白さに気づきました。
同時に、「もっといい介護がしたい」という思いも強くなっていきましたね。
理想的な介護を実現するには、最終的にはトップにならないとできないな、と感じたんです。

とはいえ、当時勤めていた社会福祉法人では、トップ3が同じ名字というような会社で、私がトップになる可能性がないことに気づいたんです。
また毎月の勤務表を見て、「これがあと30年続くのか」と思うと、将来に対する不安も感じましたね。
今でこそ介護業の待遇は改善されつつありますが、当時は60歳になっても手取り20万円程度という計算で、かなりの絶望感を覚えました。


実際に起業を決意したのはどんなきっかけだったんですか?


実は介護業界以外への転職も考えていたのですが……そんな中、友人が介護の本を出版したんです。
その本には「自己資金ゼロで、銀行から400万円借りて起業した」と書いてあって。
それを読んだ翌日、事務所に行って退職金の額を聞いたら、ちょうど400万円だと言われたんです。
それを聞いて「よし、やろう」と決心し、だいたい1週間くらいで退職を決めました。
それが、2012年8月ですね。


思い切りがいいですね!起業の準備はスムーズに進みましたか?


いいえ、それが全然で……実際には、開業資金は400万円では足りませんでした。
事務所の確保やリフォーム、運転資金などを考えると、1000万円くらい足りないことに気づいたんです。
それでネットで事業計画書の書き方を調べながら、信用金庫に1200万円の融資を申し込みました。
結果が出るまでの4ヶ月間は、本当に苦しかったですね。
同時進行で開業の準備を進めながらも、融資が下りなかったら自己破産かもしれないとか、いろいろ考えました。


そんな苦労を乗り越えてまで起業しようと思ったのは、やはり「理想の介護」への思いがあったからですか?


そうですね。
自分の強みである分析力や好奇心を活かして組織を作りながら、本当に利用者のためになる介護をしたいという思いが強かったんです。

リスクはありましたが、自分の理想とする介護を実現するためには、この選択しかないと確信していました。

1人ひとりの生き方に寄り添った介護へ。最期の1%まで自己決定を尊重したい

起業するにあたって、どんな介護サービスを提供したいと考えていましたか?


以前勤めていた老人ホームでは、入居者の起床時間や食事時間、入浴の曜日などすべてが決められていました。
今もそうやって運営している老人ホームがほとんどだと思います。
でも人それぞれ、生活スタイルや文化が違いますよね。
僕はそういう1人ひとりの違いに寄り添った対応をしたいと思っていました。


そうした思いもあった中で、最初にデイサービス事業を始めた理由は何ですか?


老人ホームで働いていて、本当に入りたくて入ってきた人はほぼゼロだったんです。
みんなやっぱり「家に帰りたい」と言う。
だから施設ではなく、家にいながら介護を受けられる在宅サービスをやろうと思いました。
デイサービスは起業しやすかったというのもあります。


事業の立ち上げ時は苦労されたそうですね。


そうですね。最初の利用者さんを獲得するのに、かなり苦労しました。
1年近く赤字が続いたと思います。
周りの人にはたくさん励ましてもらって、気持ちの面で支えられましたが、それでもやっぱり自分が体を動かしてお金を持ってこないといけないので、がむしゃらでした。


赤字を脱却できたきっかけは何かあったのですか?


早く黒字化するように、デイサービスを始めて9ヶ月後には訪問看護事業を、さらにその3ヶ月後には居宅介護支援事業所を立ち上げました。
居宅介護支援事業所では、ケアマネージャーが働いています。
通常、要介護認定を受けた人にはケアマネージャーがついて、ケアプランを立てて必要な介護サービスを紹介してくれるようになるんですね。
つまりデイサービスや訪問介護にとっては、このケアマネージャーがお客さんを紹介してくれるわけです。
居宅介護支援事業所を設立してビジネスの上流に入ったことにより、デイサービスや訪問看護の利用者を増やせて、事業が軌道に乗り始めました。


各事業がうまく嚙み合っていったんですね。いよいよ大平氏の『理想の介護』に取り組めるようになったと思いますが、そもそも大平氏が考える介護の理想像はどのようなものですか?


マザー・テレサの『人生の99%が不幸だとしても、最期の1%が幸せならば、その人の人生は幸せなものに変わる』という言葉が、すごく心に残っています。
これって裏を返せば、人生の99%が幸せだったとしても、残りの1%が不幸だったら、その人の人生は不幸なものに変わるな、と思ったんです。
私たちは、人生の最期の1%に関わる職種です。
だからこそ利用者のみなさんの最期の時間を大切にしたい、最期の選択を尊重したいと強く感じています。
そのために、本人が最期まで自己決定を行いながら、自分の能力を活かして生きていくための支援をしたいと考えています。
もっと理想をいうなら、介護が必要ない世界のほうがいいじゃないですか。
病気にならないほうがいいし……でも現実はそうもいきません。
高齢者福祉の原則には「同じ暮らしができること」「自己決定の原則」「残存能力の活用」がありますが、実際には家族の意見で決めることが多いんですよね。
ただ自分でできることは自分でやるべきで、それができるように私たちが環境を整えることが重要だと思っています。

企業理念は「最期まで自分らしく生きられる社会をつくる」こと。目標とする売り上げ10倍規模へ

企業理念は「最期まで自分らしく生きられる社会をつくる」こと。目標とする売り上げ10倍規模へ
企業理念について教えてください。何度か変更があったそうですね。


はい、これまでに3回変えています。
最初の企業理念は、「より良い介護でより良い生活を」でした。
具体的な「良い介護」の定義として、本人の意思尊重、生活の質向上、専門サービスが受けられる、という3点を掲げていましたね。
その後2〜3年してから、看護サービスを始めたことをきっかけに、理念の刷新を行いました。
看護に関する部分も、企業理念に足さないといけないなと思ったんです。
それで全社員のプロジェクトとして新しい理念を作り上げましたが、結果的に僕自身の思いが薄れてしまい、理念への愛着が失われてしまいました。
みんなの思いが入った企業理念ではあるものの、その後社員の入れ替わりもあり、ちょっと違うなと思ってしまったんですね。


それから、現在の企業理念に至った経緯は?


2017年くらいですかね。だいたい起業して4〜5年後に、会社が危機的状況に陥ったことがきっかけです。
訪問看護事業の立ち上げに尽力した幼なじみの社員が独立し、多くのスタッフと患者さんが一緒に離れたため、売上の9割を失う事態となりました。
この危機を乗り越えるため、新しいスタッフを採用し、リハビリ部門を強化して売上を立て直したんです。


売り上げの9割ですか…簡単には乗り越えられない状況ですよね。きっと大変な苦労でしたよね。


当時は本当に苦しかったですね。
ただ看護部門も徐々に拡大し、約1年後には危機前の売上水準まで回復しました。
この時に改めて「この会社で何をしていきたいのか」を約3ヶ月間悩み、内省を繰り返し、そして企業理念の重要性を再認識しました。


そういった経緯での、2回目の企業理念変更だったのですか。


そうなんです。そして内省の末に、「最期まで自分らしく生きられる社会をつくる」という理念にたどり着きました。
3回目の理念変更で、はじめて自分の思いを100%反映した理念を作れたと思いましたね。
以前の理念はみんなで決めたもので、説明力に欠ける面がありましたが、新しい理念は自信を持って説明できるものとなりました。


詳しくお話しいただき、ありがとうございます。社員に対する思いについて教えてください。


やりがいは、人から与えられるものではないと考えています。
やりがいって大変な時とか困難を乗り越えた時に、初めてやった甲斐があったなって思うわけじゃないですか。
なので僕が社員に仕事を耐えるのではなく、むしろ社員が自分で考えて、決めて、動けるような環境を作ることが大切だと思っています。
理不尽なことをせず、社員の自発的な行動を邪魔しないよう意識していますね。


社員の方の自発的な行動というと、御社のTikTokアカウントが人気だそうですね。


はい。「達者の家@介護」というTikTokアカウントがあって、フォロワーが2万4000人ほどいるんです。
これはパートのスタッフが、1人で3年ほど運用してくれています。
スタッフの姪っ子がたまたまこのTikTokを見ていたなんて話も聞くくらいで、高校生など若い世代にも見てもらえていることに驚いています。
介護の日常を楽しく伝えられているのが良かったのかもしれません。


1人で運用していたことには驚きました!これからも動画の更新を楽しみにしていますね。最後に、今後の会社の目標を教えてください。


売上を10倍の規模にすることが目標です。
ただ、単に規模を拡大するだけでなく、現在提供している良質なサービスを広げていきたいと考えています。
これまでにも辛い時期はありましたが、僕はもう経営者としてなんとかするしかない、逃げることはできないという前提があります。
どんな困難も、「2年後の自分はきっとこれについて、まったく悩んでないだろう」と考えるようにしていますね。
そうやってこれからも目の前のできることをやっていき、地元で評価の高い介護事業所として、さらに発展させていきたいです。


ありがとうございました。

COMPANY INFO会社情報

企業名
株式会社ケアクラフトマン
代表者
大平 怜也
所在地
鹿児島県出水郡長島町蔵之元3696
設立
2012年
事業内容
地域密着型通所介護、訪問看護など
ホームページ
http://www.carecraftsman.com/